丸山尚敏先生の御逝去を悼み
心から御冥福をお祈り申し上げます
早稲田大学なべの会OB会会員一同
早稲田大学なべの会顧問 丸山尚敏先生が平成18年8月28日(月)午前4時16分入院先の河北総合病院(東京都杉並区阿佐谷北1-7-3)にて御逝去されました。享年84歳でした。 丸山尚敏先生は1964年(昭和39年)の早稲田大学なべの会創設時より顧問を務められ、文部科学省自然科学学芸員としての御自身の研究の傍ら、当会の発展に献身的に御尽力いただきました。 |
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丸山先生に御参加いただいた最後の活動「現役・OB会交流イベント野草調理コンテスト」(平成18年5月21日/奥多摩町 鳩ノ巣)でのスナップ。OB会の活性化をとても喜んでくださいました。 | |
丸山先生は亡くなる二日前、平成18年8月26日(土)病室にお見舞いに伺った 澤谷英男OB会会長に対して、以下のようなメッセージを託されました。 今日は早稲田大学なべの会OB会代表の皆さん、お見舞いに来てくれて本当にありがとう。 春先までは皆と一緒に活動に参加していたのに、今回こんな事になってしまい、 情けない姿をお見せしてしまいました。 ベッドに横たわっている今、なべの会での様々な出来事をふと、思い出しては女房に話しています。 40年間、本当にいろいろな事があった・・・・。 野草採集していたら農家の方にレタスを山ほどもらった事、 夏合宿で小麦粉を溶いた水の早飲み競走をした事、 登山、野草調理コンクール、なべラリー、マラソン大会、 そして700人にのぼる会員の方々との出会い・・・。本当に懐かしいね。 なべの会は、自分にとって、遅れてきた青春だったと感じています。 OB会員の皆さんも、なべの会に在席された時の青春の思い出を、 是非、そのまま持ち続けていただきたい。 私も、その思い出を引きずって、この先を生きていくつもりでいます。 OB会から、なべの会の本を出版する計画だと聞きました。 ぜひ私にも原稿を書かせていただきたいと願っています。 また、皆さんの書かれた原稿も拝見したい。 なべの会の本だけに、ホンとの間違いがあってはいけないからね。 本の他に、私には、ふたつの夢があります。 ひとつは、退院して、中国の天山南麓を旅行する事。 もうひとつは、11月3日のなべの会OB会に出席する事です。 たとえ、車いすに乗ってでもOB会に顔を出して、皆さんとお目にかかりたいと思います。 その時まで、今日、お会いできなかった皆さんに宜しくお伝えください。 来てくださって、本当にうれしかった。 ありがとう。ごきげんよう。 |
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丸山先生の御遺体は東京医科大学に献体されました。 葬儀・告別式は執り行われませんが、平成18年11月3日(金/祝)の平成18年度OB会総会を丸山尚敏先生を偲ぶ会を兼ねさせていただき、丸山先生とのお別れの会とさせていただきました。 次男の丸山尚貴さんは、お父上である丸山先生の最期をこう語ってくれました。「8月27日の午後10時過ぎに容態が急変したとの連絡を受け、すぐ、病院に駆けつけました。多少呼吸が苦しそうでしたが、小康状態を保っていて、まだ意識もあったようで、「ゆっくり眠りなさい」と声をかけると、かすかに頷き、ゆっくりと目を閉じ、眠ったようでした。母も私もとりあえず安心していましたが、気が付くと呼吸をしていませんでした。少しも苦しんだ様子もなく、本当に眠っているかのような安らかな顔でした」 |
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◆澤谷 英男(1回生) 8月26日(土)、病室にお邪魔した時、「40年間のなべの会とのお付き合いは、私の青春そのものです」との言葉が大変印象的でした。我々とのお付き合いがこんなに長く続くとは誰が考えたでしょうか。 先生の一途な、「なべ」に対する気持は我々の生涯にとっても忘れる事はないでしょう。11月3日のOB会には皆さん奮って参加して下さい。そして明るく楽しく先生をお送りしましょう。それが先生にとって、一番の供養になると思います。 ◆遠田 梓(旧姓:池田/36回生) 丸山先生が逝かれました。 大変つらい思いです。 OB会でお会いしたら話そうと思っていたこと、たくさんありましたのに。まだまだ活躍されたかったでしょう。満足できない人生だったでしょうか。とても複雑な思いです。まだ何か飲み込めずにいます。願わくば、これからも生前と同じように、なべの会の守護神であられますように。ご冥福をお祈りいたします。 ◆芳賀 あけみ(旧姓:小曽戸/11回生) 丸山先生のご逝去心よりご冥福をお祈り致します。合宿での野草調理コンクール、ハイクなど数々の思い出が走馬燈のように巡ります。 ◆天幸 恵一郎(14回生) 丸山先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 ◆笠井 一朗(13回生) この度は、丸山先生がご逝去されたとの知らせを15回生の金子君から受け、ご愁傷なんとお慰めしてよいやら言葉もありません。 丸山先生とは、大学を卒業して以来、お会いしていませんでした。昨年から、金子君が中心となって、なべの会OB会による野草採集ハイクを丸山先生を連れ立って催している旨を電子メールで聞き及び、 「あぁ、懐かしいなぁ。元気にしておられるのだなぁ」と懐かしく、大学時代のなべの会での活動の事が、走馬燈のように思い出されました。 本来なら、早速参上し、御霊前に参詣いたすべきでございますが、 遠地北海道のこととて相叶いませず、不本意ながら、ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 ◆大塚 啓司(14回生) 14回生の大塚と申します。丸山先生にとっては、多分、印象の薄い学生であったと思います。 いつまでたっても野草の名前を覚えられないダメ会員であった私にとって、丸山先生の、物静かな学究的態度に触れるたび、反省していた記憶が蘇ります。この度のご不幸に接し、ご冥福をお祈りいたしますとともに、心からお悔やみ申し上げます。 ◆池端 茜(旧姓:田口/35回生) 今朝、先生の訃報をお聞きし、悲しくて悔しくて居たたまれない気持ちでいっぱいです。つい2週間ほど前にお見舞いに伺ったときは、11月のOB会をとても楽しみにしていらしたのに、とても残念です。 現役の頃は副幹事長をしていたこともあり、先生にはとても可愛がっていただきました。先生との思い出を振り返ると涙が溢れて止まりません。残されましたご家族の方々にはなんとお言葉をかければよいかわかりませんが、今はただ心より故人のご冥福をお祈りし、謹んでお悔やみ申し上げます。ご家族の方々も何かと大変だとは思いますが、お体に気をつけて、どうかご自愛のほど、お祈り申し上げます。 ◆桶谷 直弘(12回生) 丸山先生のご逝去に接し心よりお悔やみ申し上げます。卒業以来お会いする機会を得ず、なべのホームページ開設で久しぶりにお姿を拝見して、先生の野草調理の寸評を懐かしく思い出しておりました矢先の訃報に驚いております。たいへんお世話になりました。 ◆杉崎 健一(2回生) 昭和44年卒業の杉崎健一です。なべの会にはご無沙汰していて申し訳ありません。丸山先生の訃報を知り、大変な驚きと悲しみに沈んでいます。先生には現役時代にいろいろとご指導を受け、また二人で八幡平から佐渡が島まで旅をしたり思い出が一杯です。飄々としたあの風貌と話し振り、笑うに笑えないギャグが二度と聞けないと思うと寂しい限りです。心よりご冥福をお祈りいたします。 合掌 ◆阪根 博(5回生) 丸山先生が亡くなって、本当に残念です。皆さん同様、小生も本当にお世話になりました。学生時代のなべの会での出来事が、丸山先生との楽しい会話が、昨日の事の様に、脳裏に浮かんできます。心より、ペルーの地より先生の御冥福をお祈り申し上げます。 富美子先生にも大変お世話になりました。27年くらい前に一度ペルーにおいでになった富美子先生をご案内して、一緒にマチュピチ遺跡をご案内した事が有ります。どうぞ宜しくお伝えください。 小生10月に日本に所用で一時帰国いたします。何かございましたらご連絡ください。丸山先生の御霊安かれと、心より哀悼の意を申し上げるとともに、生前、先生より受けた数々の御恩に深く感謝申し上げます。 ◆10回生一同 さようなら丸山先生 なべの会10回生一同 昨日、先生の訃報に接しました。 なべの会OB会のホームページでこの5月に鳩ノ巣に同行された 先生のお元気なお姿を拝見したばかりです。 その後ご体調を崩された旨は伺っていたのですが、きっと11月のOB会には またお元気なお姿と軽妙な洒落を伺えると信じておりました。 振り返れば1973年(昭和48年)我々10回生が稲門を潜り、 強引な諸先輩の勧誘に引きずられ、最初に行ったのが目黒の自然教育園でした。 その時、私達と先生の交流が始まったと思います。 調理どころか野草そのものに関する知識が極めて貧弱だった私達を 洒脱な会話を交えて丁寧に案内して下さった、あの時の少し白髪の混じり始めた笑顔が 今も忘れられません。 新歓合宿、班活動、夏合宿、ゼミ活動、春合宿・・・活動が続いていく中、 先輩、後輩との繋がりも増え先生のお宅にもお邪魔をし、 学生時代の一番コンクな仲間をなべの会は私達に与えてくれました。 私達が1年の時早稲田祭の道草亭は文学部でした。 当時はまだ学生運動の余韻が色濃く残っていましたね。 2年の時、道草亭が3号館に移るとともになべの会は10周年を迎えました。 3年になって幹事会を継いだ時、今も続く会誌の車前草(オオバコ)が創刊されました。 4年になって最後の春合宿に行った時、先生は我々の卒業や院への進学を喜んでくれましたよね。 でも、もう先生の洒落は聞けないのですね。笑顔も見られないのですね。 あれから29年。私達もあの頃の先生とそれ程変わらない歳になりました。 先生がなべの会を通して我々と先輩、後輩の絆を作って下さったように 私達もそれぞれの社会でそうした役割を担う世代になりました。 大したことはできない我々ですけれど、悠久の大きな流れのなかで それぞれに与えられた役割を果たして行ければと思います。 先生。何時か我々がそちらに伺った時に、ちゃんと新歓合宿をお願いしますね。 先生、さようなら ◆村田 昌弘(1回生) 先生の症状が悪い事はメール等である程度承知していましたが、今日、訃報に接し 残念でなりません。なべの会一の功労者、博識の先生に合掌。 ◆小倉 千砂登 (旧姓:近藤/16回生) OB有志の方々がお見舞いに行かれたとのメールを受けて 「私も11月のOB会でお会いできるのを楽しみにしています。」と お見舞いメールをしようと思っていた矢先の訃報に驚きました。 そんなに厳しい病状だったのにお見舞いを受けられて談笑されていたなんて、 丸山先生らしいですね。 先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 ◆矢口 修一(13回生)矢口 恭子(旧姓:渡邊/14回生) 丸山先生が入院されたことはOB会のホームページで知っていましたが、 心身ともに強靭な先生のことだから、すぐにお元気になられるものと信じていました。 このたびの訃報に接し、大変驚くとともに、なべの会の精神的支柱を失ったことが 残念でなりません。なべの会に入るまで、山野草の知識など皆無な私たちでしたが、 先生の謦咳に接することで、野の花の控えめだけれど可憐でやさしい世界の一端を知ることが できたように思います。先生、どうもありがとうございました。 どうぞ、安らかにお眠りください。 ◆田中 嘉和(17回生) エッチなおじさんだな、と思っていた。 でも、まさに博覧強記だな、と思っていた。 子供みたいに笑う人だな、と思っていた。 でもかなり短気だよ、と思っていた。 いい加減に寝かしてくれ、と合宿の夜は思っていた。 酒も飲まずに3時かよ、と思っていた。 時間を聞くと、時計もないのに答えてくれた。 それがたいてい、当たっていた。 今で言う、寒いジョークの王様だった。 でも、仕方なく笑った。 何が嫌いな食べ物か、覚えられてしまった。 それを下級生の前で言うんじゃない、と思っていた。 誰と誰が付き合ってるって、まったく地獄耳だった。 植物の質問をした。何度も質問した。 いつでも即答だった。 あなたは、すごい人だった。 でも、当時の僕らには、そのすごさがわからなかった。 喪ってわかる。あなたは、とてつもなくすごい人だった。 野武士だった。反骨の人だった。頑なだった。弱みを見せなかった。 人に優しかった。そして、スジを通して生きてきた。 つまり、早稲田の魂を持っている人、だった。 あなたの最後の夢、中国の地へ向けて、魂よ羽ばたけ。 ◆鈴田 晃(11回生) 突然の訃報にただ驚くばかりです。 丸山先生には、なべの会を通じ野草の美しさ、自然の大切さ を教えていただいたばかりではなく、 命の大切さ、ひとつのことに打ち込むことの大切さ等 数え切れないものを教えていただきました。 もう先生の笑顔が拝見できないのか、と思うと悲しくてなりません。 どうか安らかに 丸山先生のご冥福をお祈り申し上げます ◆丹羽 弘之(13回生) 先生のご冥福を心よりお祈りいたします。 OB会ホームページで丸山先生のお元気な姿を拝見し、学生時代にタイムスリップした感覚を受けました。 そして、改めて先生の偉大さを実感しました。 まさかの訃報でした。今後も、先生の遺志は「なべの会」に脈々と受け継がれると確信しています。 丸山先生ありがとうございます。 ◆大磯 千枝子(旧姓:竹川/5回生) 丸山尚敏先生、 ご療養を気丈に乗り越えられているというご報告を幹事の皆様より承ったばかりでしたので、 このたびのご訃報、いまだ信じられない思いでいっぱいです。 早稲田を卒業して早35年経ちますが、懐かしく思い出しますのは「なべの会」のことです。 わけても、入学当初に目黒の自然教育園で、先生にご指導いただきましたことは、昨日のことのように思い出されます。 先生の「山の花」のご著書は卒業後も山行に携帯し(今ではすっかりぼろぼろになってしまいましたが)、 愛読させていただいております。 卒業後はご無沙汰しておりましたが、お元気にご活躍されているご様子は、承っておりました。 これまでのお導きに感謝し、安らかに眠られることをお祈りいたします。 ◆楠藤 和正(13回生) 奥様、ご家族のみなさま たいへんご無沙汰しております。 13回生の楠藤です。 このたびは丸山尚敏先生の訃報に接し、たいへん残念な思いです。 思えば1976年に早稲田大学に入学し、なべの会に入会して以来、30年間の おつきあいをさせていただいたことになります。 初めて先生にお会いしたのが、入学間もない4月の終わりの目黒自然教育園だったと記憶しております。 なべの会が何なのかもよくわからない頃、先生に草の名前をいろいろと伺いながら、 その随所に冗談を挟まれ、いったいどこまでが本当でどこから冗談なのか面食らったことをなつかしく思い出します。 また、上野から学生と一緒に夜行列車に揺られて、全体合宿をおこなう東北に旅立ったり、 拙い学生の合宿に良くつきあってくださいました。 合宿の山行のおりには、必ず被り慣れたチロルハットと黒いゴム長で、登場されていたのも、鮮明に覚えております。 私の代はとくに、丸山先生ご一家とは縁が深いのではないかと思います。 我々の代が幹事会(幹事長・丹羽、副幹事長・楠藤、会計幹事・渋谷、装備幹事・小林、資料幹事・根本、広報幹事・工藤) になった年の年末のことです。 石打・丸山にロッジを開かれるとのことで、その冬休み、幹事会から何人かがロッジに手伝いに伺ったことがありました。 そのときに、先生を始め奥様、尚貴さん、また先生をなさっていたご長男、まさに丸山ファミリー全員と ロッジで会う事が出来ました。 卒業後もツーリングの途中で、何度かロッジに伺い、お世話になりました。 その後、私は卒業後入社した会社を辞め、若気の至りともいうべく、オートバイで海外を走って来ました。 帰国後、早稲田祭に顔を出すと、丸山先生に「生きてたのか。良く生きて帰ってきた」 と何度も何度も言われたことを思い出します。そのときは冗談めかして言っておられましたが、 本当は心配していただいていたのではないかと思い、今更ながら申し訳ない気持ちでいっぱいです。 そして、ひとつ謎があるのですが、都合2回行った、私の海外ツーリングなのですが、 その1回目のツーリングに使った私の革ズボンなどが丸山先生のお宅にあると言われるのです。 何故、丸山先生のお宅に私のツーリングの荷物があるのか、未だにわかりません。 丸山先生に最後にお会いしたのが、今年の3月19日の現役・OB会交流の野草講習会でした。 我が家は家族全員6名で参加し、私の家族全員を先生に見ていただくことができました。 13回生のなかで、もっとも社会に適合できなかった私が、それでも何とか家庭を作り、 4人の子供をなしたということを、先生に報告できてよかったと思っております。 丸山先生は、我々とともにこれから20年も30年も生きるスーパーマンと信じておりましたが、たいへん残念です。 心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。 奥様、ご家族のみなさま、どうかお力落としのないよう。 |