篠原 功先生を偲ぶ 1968年(昭和43年)から1985年(昭和60年)実に17年間という長きに渡り、 早稲田大学なべの会の会長をお勤めいただいた大恩人を喪いました。 篠原先生。どうぞ安らかにお眠りください。 篠原先生の略歴と研究業績 定年を迎えて〜研究の遍歴〜 随筆 薬草を求めて ◆渋谷金隆(13回生) 「君は東京の町田の渋谷君なのかね?」 「はい。そうですが。」 それは今から約30年前の事。 何かのコンパの席だったでしょうか? 篠原先生の席にお酌に伺った時、私が住んでいる東京都町田市の事を聞かれたのを 今でも覚えています。 「町田には渋谷さんという苗字の方が何故か多いからね。実は僕のお墓は町田に あるんだ。妙延寺っていうお寺なんだけど、知っていますか?」 「妙延寺は私の家の菩提寺です。」 「それは奇遇だ。よろしくね。」 篠原先生は杯を傾けながら嬉しそうにお話ししてくれました。 先生は戦時中、町田に疎開され、そのご縁で妙延寺の檀家になられ、墓地を お求めになったのですね。 それ以来、酒席でお酌に伺うと、 「同じお寺なんだから、私が死んだら、渋谷君、妙延寺に墓参りに来てくれよ。」 と繰り返し冗談っぽくおっしゃっていた事を覚えております。 先日、生前に約束いたしましたお墓参りをさせていただきました。 篠原先生のお墓は、私がいずれお世話になる墓の近くにありました。 いつになるか分かりませんが、私がそちらにお邪魔する事になった時には、 またお酌に伺いますので、是非、いろいろな話を聞かせてください。 心から篠原先生の御冥福をお祈り申し上げます。 ◆田川正之(15回生) 篠原先生。ありがとうございました。 そして、本当に、御苦労さまでした。 篠原先生との出会いは1978年(昭和53年)の事、 早稲田大学なべの会に入会した年の宴会の席で先生の奥様と 一緒に御挨拶をさせていただいたのが最初でした。 篠原先生の学生を包み込むような温厚な笑顔と、それを支える 柔らかな奥様の笑顔が今でも 忘れられません。 今、振り返ると、我々が現役の学生だった頃(1980年代前半)、 篠原先生には常に御迷惑をおかけしていたんだろうなと思います。 本当に感謝申し上げます。 おかげさまで私も学生時代、よき友にも恵まれ、配偶者にも出会い、 今、3人の子供を持ち、幸せに生活できているのは、 あの時の篠原先生の温かいまなざしに包まれた早稲田大学なべの会という 素晴らしいサークルに出会えたからだと思っております。 早稲田大学の第二校歌『人生劇場』の台詞に 「会うは別れの始めとか、さよならだけが人生さ」とありますが、 篠原先生を喪った今、ぽっかり胸に大きな穴があいてしまったような気がします。 私たち現世に残された者は一日一日を一生懸命生きていかねば なりません。これからも空からあの温かいまなざしで是非、 私たちを見守っていてください。 ここに謹んで哀悼の意を表し、篠原先生の御冥福をお祈り申し上げます。 合掌 ◆田中嘉和(17回生) 篠原先生、長年にわたりなべの会を見守っていただき、 本当にありがとうございました。 会長職を引き受けていただきましたことで、 早稲田大学なべの会は大学の公認サークルとして、40年以上にわたり 自由に活動を続けて行くことができました。心より感謝申し上げます。 篠原先生の思い出と言えば、ともかくも「酒」でしょうか。 ある夏合宿の夜、初めて篠原先生の部屋に伺いごちそうになったのが 「レミーマルタン」でした。貧乏学生が口にしたことなどなかった 高級ブランデー。「こんなにうまい酒があるのだ」という衝撃は今も鮮明です。 その後回ってきた「アブサン」も、逆方向の衝撃でしたが(笑) 篠原先生は、夏合宿に何本の酒を持って来られていたのか。 今考えると不思議です。飲みながら、人が悪酔いする仕組みを 化学式で説明されたりと、先生を囲む酒席は何かアカデミックでしたね。 先生はおそらく、学生と一緒にいることがお好きだったのでしょうね。 やはり夏合宿のことですが、野草勉強会の席で篠原先生が ミニ講義をすることが恒例(?)になっていたような・・・。 内容はすっかり失念してしまいましたが、実に簡潔に、流暢に 話をされていたのはよく覚えています。 合宿の活動には飄々と参加されていた先生の、真摯な「教授」としての お姿を拝見できた貴重な瞬間でした。 篠原先生の御冥福を、心よりお祈り申し上げます。 ◆松浦 郭介(18回生) 篠原先生、大変お世話になりありがとうございました。 篠原先生がなべの会をとても大切に思って下さっていたことを、 合宿を始めとしたなべの活動に参加される先生から、 また、ご自宅に伺った際の先生のお話から、強く感じました。 ありがとうございました。先生に見守られていたお陰で、 学生であった我々も安心して、そして誇りを持って、 なべの活動を行なっていたように思います。 先生のことを思い出すときに浮かんでくるのは、 少しはにかんだような笑顔と“ぼくはね・・・”と 話される優しい語り口です。 合宿の時も、ご自宅に伺った時も先生は常に、 優しく暖かい笑顔で接してくださいました。 また、お酒を飲みながら“ぼくはね・・・”と話される篠原先生に とても暖かい感じをうけました。 妻の真知子とはなべの会で知り合ったこともあり、篠原先生と奥様に仲人を お願いし、快く引き受けて頂きました。披露宴開始早々、篠原先生のご挨拶が 思った以上に長いお話になって、式場の係の方が慌てていたことや、 披露宴のお開きでの早稲田大学校歌合唱の際には準備した伴奏のテープは 1番だけだったのに、お酒が入った先生に引きずられるようにして参加者全員で 2番、3番まで合唱したことなど非常に楽しく印象深い思い出です。 お陰さまで3人の子供にも恵まれ、家族5人元気で暮らしています。 篠原先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。 心よりご冥福をお祈りいたします。 。 |